東日本大震災から8年に思う

あの日のこと

 

 午後2時過ぎ昼食を食べ損ねていたいた私は

来場されていたお客さんから 仙台で大きな地震があったというのは本当ですか?

という問い合わせに驚きすぐに調べた。

震度7と表示されてはいたがまだ詳しい情報がなかった。

すぐに伝えたところ、この方は蒼白になった。

仙台の方だった。

 

 テレビのある場所に案内し、リモコンを持たせたが

思うような情報は無いようでチャンネルを変えてばかりいた。

 

 一時間ほど外出し、その間携帯で映像を見ていたが

羽田の閉鎖といったニュースも入ってくる。

ずいぶんと広範囲に影響がでているようだ。

 

 ちょうど東京から同僚が来ていた。

前日に一日一緒に仕事をし、当日はオフで

こちらの友人とゴルフをするつもりだと言っていたが、羽田が閉鎖では

帰れないだろう。

 

 悪いなと思いながら宿の手配など考えて電話したところ

まだ全く知らなかった。

かいつまんで説明し空路は無理。

陸路で帰るか、こちらで様子を見るか

早めに判断してほしい旨伝えて電話を切った。

 

 携帯で津波の映像が流れ始める。トラックが流される。

家屋が流れ互いにぶつかり壊しあう。

信じられない光景に言葉が出ない。

 

 社に帰ってあのお客さんを探すと。

力なく座り込んでいた。

何も聞けなかった。

行けるところまで行くという。

充電器を貸し満充電したところで送り出したが、

さぞや心配だろうと察してあまりある。

 

 ここでは地震の影響もなく、情報も次々入ってきたが

震源に近いところでは相当不自由しているだろう。

 

 家に戻りテレビをつける昼間とはまたちがう

闇に燃え上がる海が映しだされていた。

 

思い新たに

 

 津波を認識したのは、スマトラ地震の時だった。

日本は過去に津波被害を何度も出しているけれど

画像であり、また水が引いたあとのものがほとんどだった。

スマトラ地震で初めて動く映像、襲いかかってくる津波を見た。

あのころ、まだ他人事で、この地震は規格外だと勝手に決めつけていた。

まさかこれほどのものだとは。

 

 海外の報道は被害の大きさよりも、救われた命の多さを称賛するものが多かった。

建築基準の厳しさは絶賛モノで、あの地震で倒壊せずに立っている。

流された家もほとんど立ったままだ。

子供たちは自主的に避難をしその命を守った。すばらしい!

日本とはちがうとらえ方だった。

これは事実当たっているけれど、国内ではこの報道はやはりできないだろう。

あまりにも多くの命が失われたのだから。

 

 時間とともに少しづつ失われる記憶。

今日未明の地震は戒めのような気がした。

午後にもまた自身があった。

忘れるなとでも強く訴えるかのように。

 

 必ず起こると言われる巨大地震

かつてのような甘い認識では、自分さえ逃げおおせないだろう。

弱者に手を貸すなど、とてもできそうにない。

事が起きた時、少しでも役に立ちたいと改めて思う。